インセンティブの作法

経済学者 | 安田洋祐 の別ブログ

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タグ:行動経済学

「ゲーム理論」で読むバブル経済

『日本経済新聞』(2009年7月「やさしい経済学」連載)


1:バブルの経済学的分析  

 サブプライムショックに端を発する世界的な金融危機により、市場メカニズムに対する信頼が揺らぎ始めている。この信頼低下の大きな要因のひとつとして、資産市場の異常なまでの不安定さをあげることができるだろう。株式や債券などの金融資産に始まり、土地、貴金属、為替レート、はては資源価格まで、昨今ではありとあらゆる資産市場が乱高下を繰り返しているかのようだ。

 過去においても資産市場が高騰、あるいは暴落した例は数多く知られている。この20年ほどを振り返ってみても、日本経済が80年代から90年代初頭にかけて経験した土地・資産バブル、90年代後半にアジア各国を襲った通貨危機、2000年前後に世界的な広まりを見せたITバブル、サブプライムショック以前のアメリカ経済を席巻した「根拠なき熱狂」など、枚挙に暇がない。

 もちろん、資産価格の急激な変動そのものが問題かどうかについては慎重な議論が必要だ。実体経済の動きや需給を反映して、適切に価格調整が行われているのであれば、資産価格の乱高下はやむを得ないという見方もできる。一方で、一部メディアや識者が指摘するように、経済活動からかけ離れたあくなきマネー・ゲームが市場の調整機能を損なっているとすれば喫緊に問題解決を計る必要があるだろう。真に問題視されるべきなのは前者ではなく後者に代表される「バブル」、つまり実体(しばしば「ファンダメンタルズ」と呼ばれる)を反映していない価格の乱高下なのである。

 過去に幾度となく生じたバブルとその崩壊が現実経済に及ぼした影響の大きさを振り返れば明らかなように、現実のどの市場でバブルが発生している/いたのかどうか、発生しているとすればなぜ発生したのか、バブルを生み出さないためにどのような政策が有効なのか、といったバブルをめぐる分析は、現代経済の安定性や市場の機能を理解する上で必要不可欠な研究と言えるだろう。

 それでは、今までバブルの分析はどの程度の成果をあげてきたのだろうか。実は、バブル現象が古くから知られていたのとは対照的に、バブルに関する経済学的な理解や洞察は近年までほとんど得られていなかった。この閉塞的な状況を打ち破り、バブル研究に新しい息吹をもたらしたのが、本連載で紹介するゲーム理論に基づくアプローチなのである。  


2:なぜバブル分析は難しいのか?  

 バブル問題に限らず、経済学の研究は主に実証研究理論研究に大きく分かれる。前者が観測されたデータを元に仮説の検証や未知の数値の推定、将来の帰納的な予測等を行う一方で、後者はいくつかの仮定に立脚した数理モデルを用いて演繹的に結論を導きだし、現実の説明や望ましい行動規範の解明を試みる。

 バブル分析の文脈で言うと、過去の市場データを元にバブルの有無やその大きさなどを検証するのが実証研究、なぜバブルが発生するのかを理論的に解明するのが理論研究となる。前回触れたように、バブルの存在は、実証的にも理論的にも明らかにするのが難しい問題であることが知られている。以下では、それぞれの研究アプローチにおいてなにがバブルの説明を難しくしているのかを簡単に紹介したい。

 実証研究における最大の困難は、ファンダメンタルズを直接観測することができない、というデータ上の制約である。ある資産価格がバブルであるかどうかは、市場価格がその資産のファンダメンタルズから乖離(かいり)しているかどうかで判定される。しかし、実際に観測できるのは市場価格だけで、ファンダメンタルズについては推定しなければならない。これは、ファンダメンタルズの推定値いかんによっては、いかなる水準の資産価格もバブルでない/あると結論付けることが可能なことを意味する。

 市場価格とファンダメンタルズの乖離を直接調べるのではなく、現実の価格変動の大きさから間接的にバブルの存在を検証するような研究も行われている。市場価格のブレが大きすぎる場合には、動きが比較的安定しているファンダメンタルズに基づいた価格調整とは言えないため、バブルと判定できるというわけである。しかし、ファンダメンタルズのブレが本当に安定しているかどうかも検証が不可能な場合が多い。表面的な問題のやさしさとは異なり、データからバブルの存在を議論するのは極めて難しいのである。

 理論研究も、実証研究と同様にバブルの扱いには手をこまねいてきた。ファンダメンタルズは、たとえ転売することができずに長期保有したとしても平均的には損得が生じない価格水準と解釈することができる。もしバブルが発生しているとすると、市場価格がこの長期的なアンカーから外れて割高になっていることを意味するが、どうしてこのような割高な価格が維持されるのかを説明するのは意外に難しい。投資家が合理的であれば、割高な資産を買おうとはしないからだ。  


3:合理的バブルと行動経済学 

 バブルの存在を理論的に導くためには、割高な資産価格が市場でなぜ維持されるのかをきちんと解き明かさなければならない。このためには、投資家が割高な資産を買おうとする特殊な状況に注目する(=「合理的バブルの理論」)、割高かどうかの見方が投資家の間で異なる(=「情報の非対称性」)、そもそも非合理な投資家が多数存在する(=「行動経済学」)などの、やや込み入った説明が必要となってくる。

 バブルの理論としてもっとも歴史が古い合理的バブルの理論は、時間を通じて裁定条件を満たす(さや取りで儲けることができない)ように資産価格が移りゆくならば、必ずしも価格水準がファンダメンタルズに一致するとは限らないことを明らかにした。これは、非合理な投資家や投資家の持つ情報の違い、といった複雑な要素を取り入れることなく、バブルの存在を議論できる便利な理論である一方、長期的に維持不可能なバブルがなぜ存在し続けるのかを、きちんと投資家のミクロ的な視点から説明できていないという致命的な弱点を抱えている。バブル現象をより深く理解するためには、他の理論による補完的な説明が欠かせないのだ。

 それでは、心理学脳科学で得られた知見を活かして、非合理な経済主体を明示的に分析する行動経済学のアプローチはどうだろうか。なるほど、与えられた情報をもとに将来の期待利回りを計算して、最適にポートフォリオを組む合理的な投資家とは異なり、非合理な投資家を仮定すれば、割高な資産を買い続けるバブル現象をうまく説明できるかもしれない。しかし、この行動経済学アプローチも、次のような深刻な問題を抱えている。

 非合理な投資家が存在する場合に、合理的な投資家は何を考えるだろうか。割高な資産を買ってくれる非合理な投資家がいるとすれば、彼らに割高な資産を売ることによって、合理的な投資家は儲けることができる。結果として、価格はファンダメンタルズに戻るように調整されるだろう。行動経済学アプローチでは、合理的な投資家によるこうした売買になんらかの制約がない限り、バブルが安定して存在することを説明できないのである。

 結局、行動経済学を用いて現実的な投資家像を想定しても、合理的な投資家の行動に対する十分な理解なくしては、バブルをきちんと説明することはできないことが分かった。次回は、この合理的な投資家の行動を理解する上で重要な役割を担う、情報の非対称性について詳しく取り上げる。


【関連文献】

Asset Pricing under Asymmetric Information: Bubbles, Crashes, Technical Analysis, and Herding: Bubbles, Crashes, Technical Analysis and Herding
Markus K. Brunnermeier
OUP Oxford
2001-01-25

「やさしい経済学」のオリジナル原稿を書く際にかなり参考にしたテキスト。似たようなテーマの専門書がほとんど出ていないので、未だに重宝する一冊です。2001年の出版からもう15年近く経つので、ぜひ改訂版を出して欲しいなぁ。(と、チャンスがあったら著者に伝えたい…)

 多くの文脈で、ほとんどのエコノミストはこうした心理学的現実性の欠如を問題だとはまったく考えないのである。従来型のミクロ経済理論は消費者や企業の行動を予測するうえで非常な成果をあげてきた。第2章で述べたモデルの革新と、次章で述べる新しい情報経済学によって、今日の代表的ミクロ経済モデルはデータとよく整合し、実際の政策立案や、商業法廷や、ビジネスで広く使われている
 日常使われているミクロ経済学の有益な応用例にはキリがない。毎週、私は米国やヨーロッパで研究しているエコノミストが描いた、30本ほどの競争経済学や産業組織論に関する実証的論文をリストアップしたメールを受け取る。他の分野―たとえば教育経済学、公共経済学、労働経済学、その他すべての分野―でも同じくらい多くの応用研究が発表されている。こうした研究のほとんどが、個人の合理的で利己的な行動を前提にしている。ほとんどの場合、私たちはそのように行動する。ヴァーノン・スミスやチャールズ・プロットといったエコノミストの実証研究によれば、合理的な個人行動にもとづく市場均衡という従来型のミクロ経済モデルは、現実の市場における実際の出来事を正確に描写している
 一つの章全体を心理学的な含意に富んだモデルの解説にあてることは、危険がともなう。そうしたモデルが経済学の将来にとって実際以上に重要である、という印象を与えることになりかねず、その結果、従来型の主流派アプローチによる多大な貢献を過小評価することになるからだ。いまや経済学においては、心理学や神経科学の研究や実験結果を使って、現実の人間が典型的な合理的経済主体とどのように違うのかを究明する研究プログラムが山ほどある。そうしたプログラムは、体系だって非合理的な行動があるかどうかを調べることを目指している―非合理的な行動を考慮することによって経済理論と政策を改良できるかもしれないからだ。こうした行動経済学実験経済学、そして神経経済学といった分野では、素晴らしい研究結果が生み出されている。しかし結果の応用可能性は狭く、総体としての経済学は、その学問としての値打ちを再建するために心理学研究を必要とはしていない。
(177~178ページ)

 ダニエル・カーネマンが最近の概説で書いたように、「二つの学問分野(心理学と経済学)における見解の相違は永久に縮まったようにも見えるが、経済学と心理学が人間行動に関して同じ理論を共有するという見込みはさしあたりない」。エドワード・グレーザーの注記によれば、これは心理学が個々人の選択についてのみ情報を与えるのに対し、経済学はこうした選択の結果生じる全体的な結果に関心をもつ学問であるからだ。
 <中略>
 消費者や企業による意思決定に心理学的なリアリズムをもっと重視しても、多くの分野において、従来の経済的アプローチの説明力あるいは予測力はまったく変わらないのである。主流派経済学の統一されたグランド・セオリーは、合理性という仮定が心理学的に非現実的だと考える人々に不快感を与える。しかし将来をいかに予測するかという点では、心理学的な調味料をちょっとふりかけるだけで、主流派経済学のセオリーは非常にうまく機能するのである。
(208ページ)

 ジョージ・アカロフはまったく異なる観察から始めた。彼はひどい欠陥車、あるいは「レモン」のみが中古車として売られるのではなかろうか、ということに注目した。安心して乗っていられる整備のゆきとどいた中古車を売りたくても、いい値段はつかない。1970年の論文「“レモン”の市場」(提出した二つの学術雑誌からは、取るに足らないとして掲載を拒否された)で彼は、買い手と売り手との間の問題を非対称情報として指摘した。
(218ページ)

 成長やインフレの循環的変動を、同質で完全情報のもとで行動する合理的主体からなるモデルの均衡解として説明しようと試みることは、ちょっと考えると、かなりばかげたことだった。モデリングの訓練としては、なにかの洞察を得ることができるかもしれないが、実証的な説明のための良いツールではなかった。そして、エコノミストについてあなたがなんと言おうとも、私たちはデータが好きなのである。まったく的外れな批判の一つは、エコノミストは「現実」に背を向けているというものだ
 パーサ・ダスグプタ(ケンブリッジ大学の主流派経済学の教授で、貧困、社会組織、環境問題を研究)は、このしばしばくりかえされる非難にいらいらしたあげく、『アメリカン・エコノミック・レビュー』誌に1995年までの五年間に掲載された論文を種類別に数えあげた。実証あるいは実験研究についてのものが156本、実測された事実の理論的説明を求めようとしたものが100本、そして純粋に理論的な論文は25本しかなかった。ロバート・ソローは、私たちエコノミストを「データに取り付かれた」連中として描いている。 
 <中略> 
 主流派経済学はもはや一枚岩ではない。それはいままでになく実証的になっている。分析上の簡潔性のために(そして単に習慣的に)置かれた仮定の多くは、私たちのモデルではしばしばゆるめられている。だから、不完全情報や、非同質的経済主体限定合理性、人から人へのスピルオーバーなどが、近代経済学の全域で出てきている。 
(338~339ページ)


【参考文献】

文中で言及した、行動経済学のパイオニアであるダニエル・カーネマン教授が、自らの手によって一般向けに分かりやすく研究を紹介した珠玉の啓蒙書。上下巻に分かれ内容がテンコ盛りであるにも関わらず、文庫なので価格が大変リーズナブル! カーネマン教授はプリンストン大学の心理学科に籍を置いており、私がかの地へ留学した2002年に、ちょうどノーベル経済学賞を受賞されました。僕も一度だけ彼の(ノーベル賞受賞後にセットされた)一般向け講演に参加しましたが、ジョークを交えながらとても楽しく、分かりやすく研究内容を紹介されていたのが印象に残っています。読者のみなさんは本書を通じて、彼のこうした語り手としてのうまさを堪能することができるはずです。