多くの文脈で、ほとんどのエコノミストはこうした心理学的現実性の欠如を問題だとはまったく考えないのである。従来型のミクロ経済理論は消費者や企業の行動を予測するうえで非常な成果をあげてきた。第2章で述べたモデルの革新と、次章で述べる新しい情報経済学によって、今日の代表的ミクロ経済モデルはデータとよく整合し、実際の政策立案や、商業法廷や、ビジネスで広く使われている
 日常使われているミクロ経済学の有益な応用例にはキリがない。毎週、私は米国やヨーロッパで研究しているエコノミストが描いた、30本ほどの競争経済学や産業組織論に関する実証的論文をリストアップしたメールを受け取る。他の分野―たとえば教育経済学、公共経済学、労働経済学、その他すべての分野―でも同じくらい多くの応用研究が発表されている。こうした研究のほとんどが、個人の合理的で利己的な行動を前提にしている。ほとんどの場合、私たちはそのように行動する。ヴァーノン・スミスやチャールズ・プロットといったエコノミストの実証研究によれば、合理的な個人行動にもとづく市場均衡という従来型のミクロ経済モデルは、現実の市場における実際の出来事を正確に描写している
 一つの章全体を心理学的な含意に富んだモデルの解説にあてることは、危険がともなう。そうしたモデルが経済学の将来にとって実際以上に重要である、という印象を与えることになりかねず、その結果、従来型の主流派アプローチによる多大な貢献を過小評価することになるからだ。いまや経済学においては、心理学や神経科学の研究や実験結果を使って、現実の人間が典型的な合理的経済主体とどのように違うのかを究明する研究プログラムが山ほどある。そうしたプログラムは、体系だって非合理的な行動があるかどうかを調べることを目指している―非合理的な行動を考慮することによって経済理論と政策を改良できるかもしれないからだ。こうした行動経済学実験経済学、そして神経経済学といった分野では、素晴らしい研究結果が生み出されている。しかし結果の応用可能性は狭く、総体としての経済学は、その学問としての値打ちを再建するために心理学研究を必要とはしていない。
(177~178ページ)

 ダニエル・カーネマンが最近の概説で書いたように、「二つの学問分野(心理学と経済学)における見解の相違は永久に縮まったようにも見えるが、経済学と心理学が人間行動に関して同じ理論を共有するという見込みはさしあたりない」。エドワード・グレーザーの注記によれば、これは心理学が個々人の選択についてのみ情報を与えるのに対し、経済学はこうした選択の結果生じる全体的な結果に関心をもつ学問であるからだ。
 <中略>
 消費者や企業による意思決定に心理学的なリアリズムをもっと重視しても、多くの分野において、従来の経済的アプローチの説明力あるいは予測力はまったく変わらないのである。主流派経済学の統一されたグランド・セオリーは、合理性という仮定が心理学的に非現実的だと考える人々に不快感を与える。しかし将来をいかに予測するかという点では、心理学的な調味料をちょっとふりかけるだけで、主流派経済学のセオリーは非常にうまく機能するのである。
(208ページ)

 ジョージ・アカロフはまったく異なる観察から始めた。彼はひどい欠陥車、あるいは「レモン」のみが中古車として売られるのではなかろうか、ということに注目した。安心して乗っていられる整備のゆきとどいた中古車を売りたくても、いい値段はつかない。1970年の論文「“レモン”の市場」(提出した二つの学術雑誌からは、取るに足らないとして掲載を拒否された)で彼は、買い手と売り手との間の問題を非対称情報として指摘した。
(218ページ)

 成長やインフレの循環的変動を、同質で完全情報のもとで行動する合理的主体からなるモデルの均衡解として説明しようと試みることは、ちょっと考えると、かなりばかげたことだった。モデリングの訓練としては、なにかの洞察を得ることができるかもしれないが、実証的な説明のための良いツールではなかった。そして、エコノミストについてあなたがなんと言おうとも、私たちはデータが好きなのである。まったく的外れな批判の一つは、エコノミストは「現実」に背を向けているというものだ
 パーサ・ダスグプタ(ケンブリッジ大学の主流派経済学の教授で、貧困、社会組織、環境問題を研究)は、このしばしばくりかえされる非難にいらいらしたあげく、『アメリカン・エコノミック・レビュー』誌に1995年までの五年間に掲載された論文を種類別に数えあげた。実証あるいは実験研究についてのものが156本、実測された事実の理論的説明を求めようとしたものが100本、そして純粋に理論的な論文は25本しかなかった。ロバート・ソローは、私たちエコノミストを「データに取り付かれた」連中として描いている。 
 <中略> 
 主流派経済学はもはや一枚岩ではない。それはいままでになく実証的になっている。分析上の簡潔性のために(そして単に習慣的に)置かれた仮定の多くは、私たちのモデルではしばしばゆるめられている。だから、不完全情報や、非同質的経済主体限定合理性、人から人へのスピルオーバーなどが、近代経済学の全域で出てきている。 
(338~339ページ)


【参考文献】

文中で言及した、行動経済学のパイオニアであるダニエル・カーネマン教授が、自らの手によって一般向けに分かりやすく研究を紹介した珠玉の啓蒙書。上下巻に分かれ内容がテンコ盛りであるにも関わらず、文庫なので価格が大変リーズナブル! カーネマン教授はプリンストン大学の心理学科に籍を置いており、私がかの地へ留学した2002年に、ちょうどノーベル経済学賞を受賞されました。僕も一度だけ彼の(ノーベル賞受賞後にセットされた)一般向け講演に参加しましたが、ジョークを交えながらとても楽しく、分かりやすく研究内容を紹介されていたのが印象に残っています。読者のみなさんは本書を通じて、彼のこうした語り手としてのうまさを堪能することができるはずです。