青木先生に訊ねる「制度分析のこれまでとこれから」(ECONO斬り!! 2014年5月28日)より転載

 経済セミナーの最新号(↓)に、スタンフォード大学の青木昌彦名誉教授との対談記事が掲載されました! 『経済セミナー』(6・7月号)

 対談と言いつつも、ゲーム理論や制度分析の大家でいらしゃる青木先生に、不肖安田がお話を伺う、というのが基本的な内容です。少し前に先生が出版された一般向け書籍(↓)で触れられなかった論点や議論も展開されており、本書をうまく補完するデキに仕上がっていると思います。 『青木昌彦の経済学入門:制度論の地平を拡げる』

 対談の目次は次のようになっています。11にわたる幅広いトピックについて、なんと17ページ分(巻頭のメイン対談よりも長い!)もお話させて頂きました。これだけのスペースを割り振り、かつ膨大な録音テープを編集して下さったさんに改めて感謝♪
<特別対談> 青木昌彦 × 安田洋祐 「制度分析のこれまでとこれから:時代、地域を超えて深まる社会への理解」

1 比較制度分析とは何か
2 なぜ認知の問題を考えるのか
3 正義や義務感は社会的な交換の産物
4 社会から個人への影響
5 歴史と制度分析
6 人口転換の影響と「失われた20年(?)」
7 マーケットデザインによる規範的な分析の可能性
8 The unified approach
9 イノベーションと法の役割
10 国内外で活躍する日本人経済学者と大学院生
11 日本への留学生を増やそう
 以下では、対談の雰囲気をお伝えするために、最初のトピックについて記事を転載させて頂きます。ご関心を持たれた方は、ぜひ『経済セミナー』をご購入頂ければ幸いです^^
 

1 比較制度分析とは何か

安田  今回刊行された新書のタイトル、おもしろいですね。『青木昌彦の経済学入門』(以下、『入門』と略)。青木さんはこういうタイトルは避けるかと思っていたのですが(笑)。青木さんが経済学を語るというよりは、青木さんのやってきた経済学研究を、一般の読者向けにまとめた本ですね。
 よく比較制度分析とは何かとか、比較制度分析で何がわかるのか、と質問されると思います。これって答えにくくありませんか。僕もゲーム理論について、同じようなことを聞かれると困るんです。

青木  ゲームの理論は分析ツールだといわれますね。だが、これから議論したいですが、社会のあり方についての見方という面もありますね。

安田  比較制度分析もツールで、「今までと制度の見方が少し変わる」、「制度というものはこのようにとらえられる」という新しい視点の提供をするものだと思います。比較制度分析によって直ちに、結論はこうだと説明するわけではない。その辺で混乱が生じて伝わりにくいことがあるように思うのですが。

青木  ツールというと単に数学的な操作の道具と狭く解釈されるむきがあるかもしれませんが、今おっしゃったように、広く社会現象を考え、論理的に説明する枠組みと解釈してみましょう。そういう意味では、ゲームの理論は、経済現象、広くは社会現象の解釈に、ニュートン的、物理的な方法とは異なった、人間主体の相互作用・相互認知に焦点を当てた社会科学独特の考え方の枠組みを提供していると思います。
 制度分析は、そういうゲーム的な考えを継承し、それをツールとして使いながら、社会の経済現象や政治・社会現象を統合的に解釈できないか、というやや欲深い問題意識を持っています。制度というのはそういう諸現象を統合的な仕方でつなぐ何者かであるはずだからです。
 そこにいま安田さんが言われたような問題意識が出てきます。おっしゃるように、それで、法はこうあるべき、政治はこうあるべき、という結論が直ちに出てくるはずもないですが、社会科学の究極の目的ともいうべき、世の中の解釈に、それなりのディベートの素材を提供することはできるでしょう。
 話が抽象的になってしまったので、少し具体的に、経済と政治の関係から始めましょうか。
 制度論だけではなくマクロ経済学、計量経済学などいろいろな分野で第一線の仕事をしているアセモグルが、歴史家ロビンソンと、『国家はなぜ衰退するのか』(2013年、早川書房)という本を書き、話題になっています。彼らの考え方は、国家が「内包的」、つまりすべての人が自分のインセンティブに基づいて経済行動でき、政策形成にも関与できるならば経済発展は順調に進む、それに対し、一部の利益集団が自分たちの利益のためだけに経済政策を進めるような「収奪的」な政治制度だと経済発展はうまくいかないというものです。ここでは、政治から経済へという一方的な因果関係が議論の中心になっています。もちろん、彼らも経済から政治へのフィードバックについても触れてはいるけれども、基本的には政治決定論だといえます。
 政治決定論では、制度は法律、規制などのルールであり、そのルールは政府が決めることができると考えますが、僕はそういう考えには留保がある。
 アセモグルらのように、政治や国家制度が中心だとするならば、どうして違った国家制度が生じるのか。その問題に彼らは回答していない。アメリカ経済学会の文献誌であるジャーナル・オブ・エコノミッック・リテラチュアの書評で、マックレオドも彼らは結局国家体制の違いの原因として、serendipityつまり偶然を利用する能力ということ以外に何も言って無いじゃないかと批判してますが。

安田  国家体制や政治システムなどの制度を前提として、その上で経済がどのように発展するかという問題を彼らは見ているということですよね。

青木  僕は、国家や経済制度、そして経済組織や社会規範は非常に長い目で見ると共進化(coevolution)すると見るべきだと思うのです。その共進化を理解する際、ゲーム理論がツールとして非常に重要な役割を果たすと考えています。というのは、政治交換のドメインでも社会交換や経済交換のドメインでも、人々は基本的には戦略的に行動する。つまり自分を取り巻く世界にいる他の主体の行動を互いに読みあいながら行動する、そうしたことの均衡が法、経済組織や規範として集約的に言語表現されるが、そういうものの連結構造がゲーム理論で分析できる。国家制度も経済制度も、互いに補いながら成長もすれば、衰退もする、そういうメカニズムの理解に私は関心があります

安田  アセモグル&ロビンソンを擁護するわけではないのですが、経済学で何らかの社会問題を分析する際、どこまでを外生的に与えられたフレームワークにして、どこからが内生的に決まる変数だと考えるのかは、モデルによってそれぞれですよね。アセモグル&ロビンソンは、政治の仕組みをとりあえず外生的な与件として、それによって経済がどうなるかをみている。それと別に、経済の動きに従って政治がどう動いていくかをみるモデルもあり得る。そして、青木さんがおっしゃるように両者をつなぐ作業もできると思います。
 彼らはその最初の一歩としておもしろい仮説を提唱し、現実のデータを使ってかなり細かく検証したので、注目されたのだと思います。そう解釈したときに、彼らの言うところの内包的か収奪的かという政治の側面が経済配分に大きい影響を与えるという分析は、的を射たものなのか、それともその分析自体もちょっと足りないのでしょうか。

青木  確かに、彼らが例として用いているように、北朝鮮と韓国の経済パーフォーマンスの差を比べれば、彼らの命題は常識的にも尤もだということになりますね。だがそれでは、中国の収奪的とも言える国家体制のもとで、なぜ経済成長が突然起きたのか。彼らは、もし中国で現在の収奪的な政治体制が継続するならば経済成長は遅かれ早かれ停滞するだろうと言っていますが、同じ中国の権威主義的な政治文化を受け継いでいたとも言える台湾では政治制度自身が経済成長によって変わっていったのですね。韓国もそうです。とすれば、果たして政治が与件と言ってすませておけるのか。
 日本では戦後はマルクス経済学が全盛でした。マルクス経済学は、土台としての経済が政治や法律などの上部構造を決めるという考え方でしたが、アセモグルやダグラス・ノースの政治決定論の場合は、その関係を逆転させた考えになっているわけですね。だが、両者はいわば同時均衡として繋がっているというのが、繰り返しになりますが、私の基本的考えです。
 社会関係のドメインでも言語やジェスチャー、あるいはギフトを通じて、相手の感情に働きかける。また相手の反応が自分の感情にも影響を与えていることを読んで行動するわけです。だとすると、これも人々は戦略的に、自分の感情的利得(emotional payoff)を高めるために社会行動するとも考えられる。しかしそうはいっても、相手あってのことですから、そうした戦略的な行動の相互作用の結果として、いろいろな規範とか正義観などという約束事が生じてくる。こういうゲーム的見方は、規範や正義などという集団志向的なカテゴリが先験的に天から降ってくるとするカント的な考えとは違って、最近西欧でも見直されつつあるヘーゲル的な相互確認(mutual recognition)に連なるともいえます。
 青木にかかると何でもかんでも制度になってしまう、と批判されることがありますが、戦略的補完性とか、連結ゲームといったゲーム論のツールを使って、基本的な制度配置の全体構造を統一的、論理的に見ようということです。その内容についてさらに興味のある方は是非近著の『入門』を参照していただきたいですが。


『国家はなぜ衰退するのか』