インセンティブの作法

経済学者 | 安田洋祐 の別ブログ

過去の原稿やブログ記事を加筆・再掲していきます

2015年07月

青木先生に訊ねる「制度分析のこれまでとこれから」(ECONO斬り!! 2014年5月28日)より転載

 経済セミナーの最新号(↓)に、スタンフォード大学の青木昌彦名誉教授との対談記事が掲載されました! 『経済セミナー』(6・7月号)

 対談と言いつつも、ゲーム理論や制度分析の大家でいらしゃる青木先生に、不肖安田がお話を伺う、というのが基本的な内容です。少し前に先生が出版された一般向け書籍(↓)で触れられなかった論点や議論も展開されており、本書をうまく補完するデキに仕上がっていると思います。 『青木昌彦の経済学入門:制度論の地平を拡げる』

 対談の目次は次のようになっています。11にわたる幅広いトピックについて、なんと17ページ分(巻頭のメイン対談よりも長い!)もお話させて頂きました。これだけのスペースを割り振り、かつ膨大な録音テープを編集して下さったさんに改めて感謝♪
<特別対談> 青木昌彦 × 安田洋祐 「制度分析のこれまでとこれから:時代、地域を超えて深まる社会への理解」

1 比較制度分析とは何か
2 なぜ認知の問題を考えるのか
3 正義や義務感は社会的な交換の産物
4 社会から個人への影響
5 歴史と制度分析
6 人口転換の影響と「失われた20年(?)」
7 マーケットデザインによる規範的な分析の可能性
8 The unified approach
9 イノベーションと法の役割
10 国内外で活躍する日本人経済学者と大学院生
11 日本への留学生を増やそう
 以下では、対談の雰囲気をお伝えするために、最初のトピックについて記事を転載させて頂きます。ご関心を持たれた方は、ぜひ『経済セミナー』をご購入頂ければ幸いです^^
 

1 比較制度分析とは何か

安田  今回刊行された新書のタイトル、おもしろいですね。『青木昌彦の経済学入門』(以下、『入門』と略)。青木さんはこういうタイトルは避けるかと思っていたのですが(笑)。青木さんが経済学を語るというよりは、青木さんのやってきた経済学研究を、一般の読者向けにまとめた本ですね。
 よく比較制度分析とは何かとか、比較制度分析で何がわかるのか、と質問されると思います。これって答えにくくありませんか。僕もゲーム理論について、同じようなことを聞かれると困るんです。

青木  ゲームの理論は分析ツールだといわれますね。だが、これから議論したいですが、社会のあり方についての見方という面もありますね。

安田  比較制度分析もツールで、「今までと制度の見方が少し変わる」、「制度というものはこのようにとらえられる」という新しい視点の提供をするものだと思います。比較制度分析によって直ちに、結論はこうだと説明するわけではない。その辺で混乱が生じて伝わりにくいことがあるように思うのですが。

青木  ツールというと単に数学的な操作の道具と狭く解釈されるむきがあるかもしれませんが、今おっしゃったように、広く社会現象を考え、論理的に説明する枠組みと解釈してみましょう。そういう意味では、ゲームの理論は、経済現象、広くは社会現象の解釈に、ニュートン的、物理的な方法とは異なった、人間主体の相互作用・相互認知に焦点を当てた社会科学独特の考え方の枠組みを提供していると思います。
 制度分析は、そういうゲーム的な考えを継承し、それをツールとして使いながら、社会の経済現象や政治・社会現象を統合的に解釈できないか、というやや欲深い問題意識を持っています。制度というのはそういう諸現象を統合的な仕方でつなぐ何者かであるはずだからです。
 そこにいま安田さんが言われたような問題意識が出てきます。おっしゃるように、それで、法はこうあるべき、政治はこうあるべき、という結論が直ちに出てくるはずもないですが、社会科学の究極の目的ともいうべき、世の中の解釈に、それなりのディベートの素材を提供することはできるでしょう。
 話が抽象的になってしまったので、少し具体的に、経済と政治の関係から始めましょうか。
 制度論だけではなくマクロ経済学、計量経済学などいろいろな分野で第一線の仕事をしているアセモグルが、歴史家ロビンソンと、『国家はなぜ衰退するのか』(2013年、早川書房)という本を書き、話題になっています。彼らの考え方は、国家が「内包的」、つまりすべての人が自分のインセンティブに基づいて経済行動でき、政策形成にも関与できるならば経済発展は順調に進む、それに対し、一部の利益集団が自分たちの利益のためだけに経済政策を進めるような「収奪的」な政治制度だと経済発展はうまくいかないというものです。ここでは、政治から経済へという一方的な因果関係が議論の中心になっています。もちろん、彼らも経済から政治へのフィードバックについても触れてはいるけれども、基本的には政治決定論だといえます。
 政治決定論では、制度は法律、規制などのルールであり、そのルールは政府が決めることができると考えますが、僕はそういう考えには留保がある。
 アセモグルらのように、政治や国家制度が中心だとするならば、どうして違った国家制度が生じるのか。その問題に彼らは回答していない。アメリカ経済学会の文献誌であるジャーナル・オブ・エコノミッック・リテラチュアの書評で、マックレオドも彼らは結局国家体制の違いの原因として、serendipityつまり偶然を利用する能力ということ以外に何も言って無いじゃないかと批判してますが。

安田  国家体制や政治システムなどの制度を前提として、その上で経済がどのように発展するかという問題を彼らは見ているということですよね。

青木  僕は、国家や経済制度、そして経済組織や社会規範は非常に長い目で見ると共進化(coevolution)すると見るべきだと思うのです。その共進化を理解する際、ゲーム理論がツールとして非常に重要な役割を果たすと考えています。というのは、政治交換のドメインでも社会交換や経済交換のドメインでも、人々は基本的には戦略的に行動する。つまり自分を取り巻く世界にいる他の主体の行動を互いに読みあいながら行動する、そうしたことの均衡が法、経済組織や規範として集約的に言語表現されるが、そういうものの連結構造がゲーム理論で分析できる。国家制度も経済制度も、互いに補いながら成長もすれば、衰退もする、そういうメカニズムの理解に私は関心があります

安田  アセモグル&ロビンソンを擁護するわけではないのですが、経済学で何らかの社会問題を分析する際、どこまでを外生的に与えられたフレームワークにして、どこからが内生的に決まる変数だと考えるのかは、モデルによってそれぞれですよね。アセモグル&ロビンソンは、政治の仕組みをとりあえず外生的な与件として、それによって経済がどうなるかをみている。それと別に、経済の動きに従って政治がどう動いていくかをみるモデルもあり得る。そして、青木さんがおっしゃるように両者をつなぐ作業もできると思います。
 彼らはその最初の一歩としておもしろい仮説を提唱し、現実のデータを使ってかなり細かく検証したので、注目されたのだと思います。そう解釈したときに、彼らの言うところの内包的か収奪的かという政治の側面が経済配分に大きい影響を与えるという分析は、的を射たものなのか、それともその分析自体もちょっと足りないのでしょうか。

青木  確かに、彼らが例として用いているように、北朝鮮と韓国の経済パーフォーマンスの差を比べれば、彼らの命題は常識的にも尤もだということになりますね。だがそれでは、中国の収奪的とも言える国家体制のもとで、なぜ経済成長が突然起きたのか。彼らは、もし中国で現在の収奪的な政治体制が継続するならば経済成長は遅かれ早かれ停滞するだろうと言っていますが、同じ中国の権威主義的な政治文化を受け継いでいたとも言える台湾では政治制度自身が経済成長によって変わっていったのですね。韓国もそうです。とすれば、果たして政治が与件と言ってすませておけるのか。
 日本では戦後はマルクス経済学が全盛でした。マルクス経済学は、土台としての経済が政治や法律などの上部構造を決めるという考え方でしたが、アセモグルやダグラス・ノースの政治決定論の場合は、その関係を逆転させた考えになっているわけですね。だが、両者はいわば同時均衡として繋がっているというのが、繰り返しになりますが、私の基本的考えです。
 社会関係のドメインでも言語やジェスチャー、あるいはギフトを通じて、相手の感情に働きかける。また相手の反応が自分の感情にも影響を与えていることを読んで行動するわけです。だとすると、これも人々は戦略的に、自分の感情的利得(emotional payoff)を高めるために社会行動するとも考えられる。しかしそうはいっても、相手あってのことですから、そうした戦略的な行動の相互作用の結果として、いろいろな規範とか正義観などという約束事が生じてくる。こういうゲーム的見方は、規範や正義などという集団志向的なカテゴリが先験的に天から降ってくるとするカント的な考えとは違って、最近西欧でも見直されつつあるヘーゲル的な相互確認(mutual recognition)に連なるともいえます。
 青木にかかると何でもかんでも制度になってしまう、と批判されることがありますが、戦略的補完性とか、連結ゲームといったゲーム論のツールを使って、基本的な制度配置の全体構造を統一的、論理的に見ようということです。その内容についてさらに興味のある方は是非近著の『入門』を参照していただきたいですが。


『国家はなぜ衰退するのか』

7:バブルに乗る投資家

 合理的群衆行動の理論では、投資収益の最大化を行わない非合理な投資家がいっさい存在しないにも関わらず、個々の投資家の持つ情報が市場に織り込まれずにバブルが発生する様子をうまく描写することができた。しかし一方で、この理論の下ではどの投資家もバブルの存在に気が付くことがないため、現実のバブル現象において観察される、投資家に関するいくつかの重要な行動を説明できないといった問題も抱えている。その一つが、いわゆる「バブルに乗る」(=Riding Bubble)と呼ばれる投資家行動である。

 合理的な投資家が、バブルの発生を知りながらも高値で売り抜けようとして買いポジションを張り続けるバブルに乗る投資行動は、古今東西のバブルに共通する現象だ。古くは18世紀にイギリスで起きた南海バブルにおいて、かの知の巨人ニュートンもバブルに乗ったことから大きな打撃を受け、「天体の動きなら計算できるが、人々の狂気までは計算できなかった」と述懐している。米国におけるITバブル崩壊の際にも、最も合理的な投資家と考えられるヘッジファンドの多くが被害を蒙(こうむ)っており、ある経営者は売り抜けに失敗した理由を尋ねられた際に(野球に喩えて)「我々はまだ8回かと思っていたが、すでに9回だった」と返答している。

 このようなバブルに乗る行動を説明するために鍵を握るのが、非合理な投資家の存在である。合理的な投資家はバブルの発生に気が付いた際に、非合理な投資家へ資産を売ることにより収益を上げることができる。しかし、もしも自分が資産を売った後に、バブルが弾けずにさらに膨らみ続けた場合には、追加的な収益を上げる機会を失ってしまうことになる。先ほどのファンド・マネージャーが言い残しているように、ゲーム終了ギリギリの9回まで粘って売り抜けるのが一番儲かるのだ。

 近年になって、このバブルに乗る行動がもたらすトレードオフをうまく表現する理論研究がいくつか登場している。合理的な投資家がバブルの存在について独立に情報を受け取るため、売買行動を同調させてうまくバブルの火消しを行うことができない、という投資家のシンクロナイゼーション・リスクに注目した研究や、バブルがどこまで膨らんでも絶対に資産を売ろうとしない非合理な投資家が微小な割合で存在する時に、合理的な投資家が非合理な投資家のフリをしてバブルに乗ろうとすることを明らかにした研究などが代表的で、いずれも高度なゲーム理論を使用しているのが特徴的だ。


8:自信過剰がバブルを生み出す

 最終回にあたる今回は、収益最大化を目指すという意味では合理的である一方、心理的なバイアスに染まっているという点では非合理な投資家に焦点を当てた、最新研究を紹介したい。投資家の心理的なバイアスに関しては様々な仮説が考えられるが、ここでは「自信過剰」(=Overconfidence)を取り上げる。具体的には、各投資家はそれぞれ独立にファンダメンタルズに関する情報を受け取るが、常に自分の情報の方が他人の情報よりも精度が高いと一貫して勘違いすると仮定しよう。

 このような心理的なバイアスが存在する状況では、仮にファンダメンタルズに関する情報が投資家の間で全て共有されたとしても、依然として将来に対する予想が食い違うことがあるため、投機的な取引が発生する。第四回で言及した不可能性定理(=No Trade Theorem)が成り立たないのである。もちろん、投機的な売買が行われたからといって、直ちにバブルが発生するとは限らない。楽観的な投資家と悲観的な投資家が同じだけ市場に存在すれば、自信過剰によって生じたお互いのズレが打ち消しあってバブルは発生しないからだ。

 それでは、自信過剰はバブルを生み出すことはないのでろうか。ここで鍵を握るのが、現実の多くの市場で観察される売りと買いの非対称性である。たとえば、先物市場が存在しない、あるいは空売りが禁止/制限されているような場合には、「売り」は資産の所有者しか行うことができない一方で、「買い」はどの参加者にも許されている。このような状況では、将来の値上がりを期待する楽観的な「買い」が値下がりを期待する「売り」によって適切にバランスされないため、価格が上ブレしてバブルが発生する。自信過剰な投資家と売買に関する非対称性を組み合わせる事によって、はじめてバブルを説明することができるのである。

 以上、過去八回にわたって経済学におけるバブル分析の動向を追ってきた。バブル現象の解明は、ゲーム理論アプローチの進展によってこの10~20年で急速に進んでいる。そこでは、投資家の学習行動や心理的なバイアス、売りと買いの非対称性といった現実的な要因を、いかに理論とうまく融合させるかが重要であった。今後の研究動向としては、これらの要素の中でも特に、今回紹介した投資家心理に注目する研究が増えていくことが予想される。バブル分析の更なる発展に期待したい。


【関連文献】


行動ファイナンスの先駆者の一人、シュライファー・ハーバード大学教授による講義録。本人の代表作である「ノイズ・トレーダー」モデルをはじめ、行動ファイナンス分野における代表的な考え方が紹介されています。(Amazonレビューで酷評されているように)日本語訳は分かりやすいとは言えないので、興味のある方はこの原書にトライしてみてください!


【参考論文】
よりアカデミックな研究論文にご関心のある方は、こちらのリストをご参照ください。 

4:鍵を握る情報の非対称性 

 「情報の非対称性」の考え方は、2001年にアカロフ・スペンス・スティグリッツの三氏がノーベル経済学賞を受賞したことで一般にも広まったため、ご存じの方も多いだろう。経済主体の間で情報が偏在している場合には、アドバースセレクション(逆淘汰)モラルハザードなど、伝統的な経済学で扱うことのできなかった様々な市場の失敗が発生することが知られている。資産市場においても、一般に投資家の受け取る情報は均一ではないため、情報の非対称性が市場に重大な影響を及ぼす可能性があると言える。

 一見すると、投資家が異なる情報に基づき売買を行えば、将来に対する予想の違いから投機的な投資を生み、それがバブルをもたらすことを簡単に説明できるように思われる。しかし、以下で述べるように、単に情報の非対称性が存在するだけでは、バブルはもちろん投機的な投資がなぜ起こるのかでさえ、実は説明することが難しいのだ。

 投機的な投資を阻む第一の要因は、効率市場仮説と呼ばれる市場に対する見方である。この仮説は、市場は平均的には正しい予想を形成しており、仮にファンダメンタルズからの乖離(かいり)を示唆する情報を特定の投資家が得たとしても、取引を通じてすぐに市場価格に織り込まれてしまうため、投機的な投資が持続することはない、と主張する。市場価格がファンダメンタルズから離れるのは一時的ないしは限定的な状況というわけだ。

 効率市場仮説よりも更に厳密なミクロ的な立場から、合理的な投資家の間では投機的な取引自体がいっさい起こり得ないと主張するドラスティックな定理(「不可能性定理」(=No Trade Theorem)と呼ばれる)も知られている。この定理は、私的情報を入手した投資家が売買によって儲けようとしても、その行動を通じて情報が取引相手に間接的に伝わってしまい、結局は儲けの生じない水準にまで価格が調整されるため取引自体が生じない、と主張する。現実には、文字通り不可能性定理が当てはまるような状況は限定されているが、「うまい儲け話はない」と投資家が慎重に構えることにより取引が行われない、といった状況は、この定理の世界に近いと言えるかもしれない。

 このように、情報の非対称性を導入しただけでは、残念ながら簡単にはバブルを説明することができない。投機の可能性やバブルの存在を導くためには、次回以降で紹介する更なるストーリーが必要となってくるのである。


5:他人の行動から情報を読む

 さて、過去4回の連載では、バブル分析を謳(うた)いながらも、実際のところはいかにバブル分析が困難であるかを解説するに留まっていた。後半の4回では、前回注目した情報の非対称性を足がかりに、バブル分析のための理論をいよいよ見て行くことにしよう。今回と次回では、合理的な投資家が他人の行動から情報をアップデートすることによって、あたかも非合理に見える群衆行動をもたらしてしまう、合理的群衆行動(Rational Herding)について取り上げたい。まずは、資産市場のことは少し忘れて以下の簡単な例を考えてみよう。

 いま、ある通りに2軒のレストランA、Bが軒を連ねて並んでいるとする。この通りに順番に客が訪れ、どちらかのレストランを選んで入っていくとしよう。客はそれぞれどちらの店の方が美味しいかについて独自に情報を得ており、自分の得た情報と他の客の得た情報を総合して店を決定する。具体的には、Aの方が美味しいという情報の数がBの方が美味しいという情報の数を上回っていればAを、逆であればBを選び、同数の場合には自分の得た情報に従うことにする。この時、k番目に通りへとやってきた客(「客k」と呼ぼう)はどのようにレストランを選ぶことになるだろうか。

 まず、k=1の場合は簡単だ。自分が最初の客で、観察できる他人の情報は何もないため、自分の受け取った情報がAであればA、BであればBを選ぶのが最適となる。つまり、受け取った情報がそのままレストラン選択の行動として表れるのである。それではk=2についてはどうだろう。この場合は、客1の得た情報と自分の情報を合わせて考えなければならないが、先ほどの仮定により、もしも二人の得た情報が一致して入ればその店を選び、食い違っている場合には自分の情報に従うことになる。結果として、客1の行動とは関係なく自分の情報に従うのが客2にとっては最適となることが分かる。

 さて、次にk=3を考えてみよう。もしも客1と2が異なる店を選んでいたとすると、それは二人の得た情報が異なることを意味するため、客3は自分の情報のみに従うのが最適となる。逆に客1と2が同じ店を選んでいたとすると、二人の情報は同じになるため、客3は自分の情報がAとBのどちらであっても、前の二人の選んだレストランを選ぶ。つまり、自分の情報を無視して(これを「情報カスケード」(=Information Cascade)と呼ぶ)、前の客たちの真似をするようになるのだ。これは、k=4以降も延々と続くことになる。


6:群衆行動で市場が間違える

 前回はレストランの例を元に、合理的群衆行動がいかにして発生するかを見た。最初の二人がたまたまAの方が美味しいという情報を得た場合には、三人目以降は自分の情報を一切参考にせずに(=「情報カスケード」)Aを選ぶのが最適となる。仮に十人の客がいたとして、最初の二人を除いて残り八人が全てBの方が美味しいという情報を得ていたとしても、情報カスケードが起こることにより全ての客がAを選んでしまうのだ。これは一体なにを意味するのだろうか。

 十人中八人がBという情報を得ているのであれば、実際にはAではなくBの店の方が美味しい可能性が高い。つまり、客の持つ全ての情報を総合した、全体としての最適な予想はBとなる。しかし、それにも関わらず客はBではなくAを選び続けるという、一見すると「非合理な」群衆行動が発生してしまうのである。これは、参加者全体の予想と彼らの行動が食い違っていることを意味する。その結果、美味しくない方のレストランに行列ができてしまうというわけだ。

 このストーリーを資産市場に当てはめると次のように言えるだろう。Aを「買い」、Bを「売り」と解釈すると、市場全体では売り情報を得ている投資家が多いにも関わらず、いったん買いの流れが生じると、残りの投資家が買いに殺到するという群衆行動が生じる。この結果、市場価格がファンダメンタルズから離れてバブルが発生する。個々の投資家は、他の投資家がどのような情報を得ているのかを直接観察することができないため、お互いの売買行動や市場価格から間接的に情報を推測するしかないというのがポイントだ。このように情報のやりとりに現実的な制約が課された状況では、投資家が合理的であるにも関わらず、いや個々の投資家が合理的であるからこそ、全体として「市場は間違える」のである。これは、市場が常に正しい予想を形成すると唱える、効率市場仮説とは極めて対照的である。

 以上、合理的群衆行動の理論を用いて、いかにして市場が投資家の持つ情報を織り込むことに失敗し、バブルが発生するのかを説明してきた。群衆行動を個々の合理的な投資家の学習行動からミクロ的に説明するこのアプローチは、バブルの理論分析を代表する新しい研究の一つであり、バブル現象の重要な側面を捉える成果をあげた。次回は、合理的な投資家と非合理な投資家が混在する状況を扱った、最新の理論研究について見ていくことにしよう。
 

【関連文献】

Rational Herds: Economic Models of Social Learning
Christophe P. Chamley
Cambridge University Press
2003-11-24


合理的群衆行動に関する(おそらく)唯一の専門テキスト。ペンギンの表紙が可愛いです! 本文はそこまでテクニカルではありませんが、読みこなすのはなかなか大変かも。

「ゲーム理論」で読むバブル経済

『日本経済新聞』(2009年7月「やさしい経済学」連載)


1:バブルの経済学的分析  

 サブプライムショックに端を発する世界的な金融危機により、市場メカニズムに対する信頼が揺らぎ始めている。この信頼低下の大きな要因のひとつとして、資産市場の異常なまでの不安定さをあげることができるだろう。株式や債券などの金融資産に始まり、土地、貴金属、為替レート、はては資源価格まで、昨今ではありとあらゆる資産市場が乱高下を繰り返しているかのようだ。

 過去においても資産市場が高騰、あるいは暴落した例は数多く知られている。この20年ほどを振り返ってみても、日本経済が80年代から90年代初頭にかけて経験した土地・資産バブル、90年代後半にアジア各国を襲った通貨危機、2000年前後に世界的な広まりを見せたITバブル、サブプライムショック以前のアメリカ経済を席巻した「根拠なき熱狂」など、枚挙に暇がない。

 もちろん、資産価格の急激な変動そのものが問題かどうかについては慎重な議論が必要だ。実体経済の動きや需給を反映して、適切に価格調整が行われているのであれば、資産価格の乱高下はやむを得ないという見方もできる。一方で、一部メディアや識者が指摘するように、経済活動からかけ離れたあくなきマネー・ゲームが市場の調整機能を損なっているとすれば喫緊に問題解決を計る必要があるだろう。真に問題視されるべきなのは前者ではなく後者に代表される「バブル」、つまり実体(しばしば「ファンダメンタルズ」と呼ばれる)を反映していない価格の乱高下なのである。

 過去に幾度となく生じたバブルとその崩壊が現実経済に及ぼした影響の大きさを振り返れば明らかなように、現実のどの市場でバブルが発生している/いたのかどうか、発生しているとすればなぜ発生したのか、バブルを生み出さないためにどのような政策が有効なのか、といったバブルをめぐる分析は、現代経済の安定性や市場の機能を理解する上で必要不可欠な研究と言えるだろう。

 それでは、今までバブルの分析はどの程度の成果をあげてきたのだろうか。実は、バブル現象が古くから知られていたのとは対照的に、バブルに関する経済学的な理解や洞察は近年までほとんど得られていなかった。この閉塞的な状況を打ち破り、バブル研究に新しい息吹をもたらしたのが、本連載で紹介するゲーム理論に基づくアプローチなのである。  


2:なぜバブル分析は難しいのか?  

 バブル問題に限らず、経済学の研究は主に実証研究理論研究に大きく分かれる。前者が観測されたデータを元に仮説の検証や未知の数値の推定、将来の帰納的な予測等を行う一方で、後者はいくつかの仮定に立脚した数理モデルを用いて演繹的に結論を導きだし、現実の説明や望ましい行動規範の解明を試みる。

 バブル分析の文脈で言うと、過去の市場データを元にバブルの有無やその大きさなどを検証するのが実証研究、なぜバブルが発生するのかを理論的に解明するのが理論研究となる。前回触れたように、バブルの存在は、実証的にも理論的にも明らかにするのが難しい問題であることが知られている。以下では、それぞれの研究アプローチにおいてなにがバブルの説明を難しくしているのかを簡単に紹介したい。

 実証研究における最大の困難は、ファンダメンタルズを直接観測することができない、というデータ上の制約である。ある資産価格がバブルであるかどうかは、市場価格がその資産のファンダメンタルズから乖離(かいり)しているかどうかで判定される。しかし、実際に観測できるのは市場価格だけで、ファンダメンタルズについては推定しなければならない。これは、ファンダメンタルズの推定値いかんによっては、いかなる水準の資産価格もバブルでない/あると結論付けることが可能なことを意味する。

 市場価格とファンダメンタルズの乖離を直接調べるのではなく、現実の価格変動の大きさから間接的にバブルの存在を検証するような研究も行われている。市場価格のブレが大きすぎる場合には、動きが比較的安定しているファンダメンタルズに基づいた価格調整とは言えないため、バブルと判定できるというわけである。しかし、ファンダメンタルズのブレが本当に安定しているかどうかも検証が不可能な場合が多い。表面的な問題のやさしさとは異なり、データからバブルの存在を議論するのは極めて難しいのである。

 理論研究も、実証研究と同様にバブルの扱いには手をこまねいてきた。ファンダメンタルズは、たとえ転売することができずに長期保有したとしても平均的には損得が生じない価格水準と解釈することができる。もしバブルが発生しているとすると、市場価格がこの長期的なアンカーから外れて割高になっていることを意味するが、どうしてこのような割高な価格が維持されるのかを説明するのは意外に難しい。投資家が合理的であれば、割高な資産を買おうとはしないからだ。  


3:合理的バブルと行動経済学 

 バブルの存在を理論的に導くためには、割高な資産価格が市場でなぜ維持されるのかをきちんと解き明かさなければならない。このためには、投資家が割高な資産を買おうとする特殊な状況に注目する(=「合理的バブルの理論」)、割高かどうかの見方が投資家の間で異なる(=「情報の非対称性」)、そもそも非合理な投資家が多数存在する(=「行動経済学」)などの、やや込み入った説明が必要となってくる。

 バブルの理論としてもっとも歴史が古い合理的バブルの理論は、時間を通じて裁定条件を満たす(さや取りで儲けることができない)ように資産価格が移りゆくならば、必ずしも価格水準がファンダメンタルズに一致するとは限らないことを明らかにした。これは、非合理な投資家や投資家の持つ情報の違い、といった複雑な要素を取り入れることなく、バブルの存在を議論できる便利な理論である一方、長期的に維持不可能なバブルがなぜ存在し続けるのかを、きちんと投資家のミクロ的な視点から説明できていないという致命的な弱点を抱えている。バブル現象をより深く理解するためには、他の理論による補完的な説明が欠かせないのだ。

 それでは、心理学脳科学で得られた知見を活かして、非合理な経済主体を明示的に分析する行動経済学のアプローチはどうだろうか。なるほど、与えられた情報をもとに将来の期待利回りを計算して、最適にポートフォリオを組む合理的な投資家とは異なり、非合理な投資家を仮定すれば、割高な資産を買い続けるバブル現象をうまく説明できるかもしれない。しかし、この行動経済学アプローチも、次のような深刻な問題を抱えている。

 非合理な投資家が存在する場合に、合理的な投資家は何を考えるだろうか。割高な資産を買ってくれる非合理な投資家がいるとすれば、彼らに割高な資産を売ることによって、合理的な投資家は儲けることができる。結果として、価格はファンダメンタルズに戻るように調整されるだろう。行動経済学アプローチでは、合理的な投資家によるこうした売買になんらかの制約がない限り、バブルが安定して存在することを説明できないのである。

 結局、行動経済学を用いて現実的な投資家像を想定しても、合理的な投資家の行動に対する十分な理解なくしては、バブルをきちんと説明することはできないことが分かった。次回は、この合理的な投資家の行動を理解する上で重要な役割を担う、情報の非対称性について詳しく取り上げる。


【関連文献】

Asset Pricing under Asymmetric Information: Bubbles, Crashes, Technical Analysis, and Herding: Bubbles, Crashes, Technical Analysis and Herding
Markus K. Brunnermeier
OUP Oxford
2001-01-25

「やさしい経済学」のオリジナル原稿を書く際にかなり参考にしたテキスト。似たようなテーマの専門書がほとんど出ていないので、未だに重宝する一冊です。2001年の出版からもう15年近く経つので、ぜひ改訂版を出して欲しいなぁ。(と、チャンスがあったら著者に伝えたい…)

1票の格差が示す「選挙が間違える」リスクの差

週刊ダイヤモンド』(2013年12月14日号「数字は語る」)

数字:4.77倍
解説:7月の参院選における1票の最大格差  
(議員1人当たりの有権者数が最小の鳥取県と最大の北海道との差)

 11月28日、広島高裁岡山支部が今年7月に行われた参院選を「違憲で無効」とする判決を出した。参院選に対する「無効」判決は今回が初めてとなる。同選挙においては、議員1人あたりの有権者数が最小の鳥取県と最大の北海道で4.77倍もの差が生じていた(無効判決が出た岡山県は3.27倍)。

 11月20日には同じく「1票の格差」を理由として、昨年の衆院選を「違憲状態」とする最高裁判決が下された。

 では、そもそもなぜ1票の格差は問題なのだろうか。選挙区ごとに1票の実質的な価値が異なるのは、「1人1票」という投票の大原則に反している、という議論はよく耳にする。確かに、1票の持つ重みの偏りは法の下の平等に反するため、減らしていく必要があるだろう。しかし、格差を解消することの意義は平等性だけにとどまらない。実は、ほかにも隠されたメリットが存在することをご存じだろうか。

 個人が選択を間違えることがあるように、集団における多数決も常に正しい答えを導くとは限らない。各有権者が一定の確率で判断(投票)を誤るのであれば、それを集計した投票結果も間違っている場合があるからだ。本来はベストであったはずの候補者が落選してしまう、というリスクが選挙には潜んでいる。

 この「選挙が間違える」リスクは、(各人が空気に流されずに自分の意思で投票する限り)有権者の数が増えるにつれて小さくなることが知られている。議員1人あたりの有権者数が少ない選挙区のほうが、多い選挙区よりも間違える危険性が高いのだ。また、同じ得票率であれば、有権者数が多い選挙区の議員のほうが「正しい」判断によって選ばれた可能性が高くなる。これは、同じ「当選」であっても、その正当性が選挙区によって異なり得ることを意味する。

 以上のように、1票の格差を無くすことは、有権者間の平等の実現に加えて、当選の正当性を選挙区間で均等化させることにもつながる。正しい民意をバランスよく選挙結果に反映させるために、格差の解消は欠かせない。


【関連図書】

一定の条件のもとで、選挙が間違えるリスクが有権者の数が増えるにつれて小さくなりゼロに収束する、という命題は(コンドルセの)「陪審定理」と呼ばれています。陪審定理を含め、集団の選択にまつわる様々な問題を、「社会選択理論」という切り口から紹介した名著として、慶應大学の坂井さんによる次の二冊があります。前者はやや専門向けですが、前提知識はほぼゼロで読むことができます。後者は新書とは思えないほど内容が充実しており、学問的知見を踏まえた著者の熱いメッセージが伝わる力作です。どちても激しくオススメ(個人的には『社会選択理論への招待』の方が好み)!




社会選択理論は「厚生経済学」という、人々の経済的な豊かさ・福祉について扱う分野で(その一部を)カバーされることも多いです。厚生経済学に関する優れた中級レベルの教科書として、以下の翻訳書がおすすめです。類書で触れられていない多くのトピックについて厳密かつ分かりやすく書かれています。(原書はべらぼうに高いので、とってもお買い得ですよ!)

厚生経済学と社会選択論
アラン・M. フェルドマン
シーエーピー出版
2009-04