メニュー選択と学校選択のアナロジー 

 上述したアナロジーの問題点をよりはっきりさせるために、次のような簡単な例を考えてみよう。飛行機の国際線に乗ると機内食がサービスされるが、(私が愛用するエコノミークラスでは)通常は2種類のメニューから選べる場合が多い。食事の時間になると「お肉にしますか? それともお魚にしますか?」というようにキャビン・アテンダントの方が尋ねてくれるのはご承知の通りである。この機内食のメニュー選択はあまりにも当たり前で、もはやサービスとすら感じなくなっている方も多いかもしれない。 さて、いま仮にこの機内食の選択ができなくなり、偶数列の席は肉料理・奇数列の席は魚料理、といった形で座席番号に応じてメニューが固定されてしまったとしたらどうだろう? おそらく多くの方は選択肢を奪われたことに対して不満を抱くのではないだろうか。自分が本当に食べたかったのは肉料理なのに、たまたま奇数番号に座ってしまったが故に嫌いな魚料理を食べることになってしまう、といった不幸な乗客が出てきてもおかしくない。乗客ごとの好みに基づいて食べたいメニューをサービスする、というのは多くの人が賛成する望ましい選択方法だと言えるだろう。

 実は学校選択はこの機内食のメニュー選択と非常によく似ている。学校選択制導入以前は、原則として各生徒は住んでいる場所に応じた通学指定校に通わなければならなかった。たとえ通学指定校とは別の学校に通いたくても、選択の自由は与えられていなかったのだ。これは、機内食のメニュー選択が許されていない「偶数列は肉料理・奇数列は魚料理」の世界と全く同じである。もちろん、いくらメニュー選択ができないと言っても、アレルギーや宗教的な理由からどうしても食べられないものがあるような乗客に対しては、メニュー変更を例外的に認めるべきだろう。学校選択においても(学校選択制の導入以前から)、いじめなどの止むに止まれぬ事情がある場合には、通学指定校以外の学校への通学を認めてきた。ただし、こうした選択はあくまで例外的な場合に限定されており、大多数の生徒には学校選択が認められていなかったのである。

 一方、学校選択制が導入されると、各生徒は住んでいる場所に縛られずに本当に行きたい学校を選ぶことができるようになる。これは、座席に関係なく好きなメニューを選べる現在の機内食サービスに対応している。自由にメニューを選ぶことができるため、乗客の年齢層などに応じて肉料理と魚料理の人気に差が出てくることはあるかもしれないが、そうした選択人数の差を「格差」と言って問題視する人はいない。「今日の乗客は肉料理ばかり選んでけしからん。こんな格差を生むようなメニュー選択はやめるべきだ!」などという批判が的外れであることは明らかだろう。

 ところが、メニュー選択におけるこの的外れな格差批判が、学校選択の文脈においてはあたかも本質をついた批判であるかのように流布している。本来重視すべき生徒達の厚生から目をそらし、実体のない「格差」や「競争」というイメージを煽り立てて学校選択制を批判することは、単なるイデオロギーの押しつけであり非生産的な議論である。これらのイメージと現実との距離にいかにギャップがあるかは、肯定派が圧倒的多数を占める保護者や生徒達へのアンケート結果からも窺い知ることができるだろう。 もちろん、生徒数差に問題が全くない訳ではない。人数が減ってしまった学校では行事が盛り上がらず、逆に人数が増えた学校では校庭やプールの利用が制限される、といった実害が生じ得ることは現に報告されている。重要なのは、生徒数のばらつきを俎上に載せる際に、「格差は良くない」と言った超越的な価値判断に基づいた議論では何も生み出さない、という点だ。そうではなく、生徒数のばらつきが「具体的に」どのような理由で望ましくないのかを「生徒達の視点に立って」虚心坦懐に分析する姿勢が必要なのである。

 学校選択制を弱肉強食の冷酷な市場競争という負のイメージに重ねて「競争は良くない」と訴える表層的な議論にも、同様の批判が当てはまる。メニュー選択を通じた乗客からのフィードバックが機内食サービスの充実に繋がるように、学校選択を通じた保護者や生徒からの声は、学校教育の向上や特色ある教育を生み出す原動力だと言えるだろう。機内食をおいしくする生産者の努力や生産者間の競争が乗客にとって望ましいのと同様に、教育の質を高めるような個々の学校の努力や学校間の競争が、生徒達にとって望ましいことは言うまでもない。競争の中身をチェックせずに、生徒達の厚生に与える影響から乖離した超越的な価値判断を持ち込むのは、百害あって一理なしである。 

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