インセンティブの作法

経済学者 | 安田洋祐 の別ブログ

過去の原稿やブログ記事を加筆・再掲していきます

「裁量行政」で不透明 新規発着枠の配分は入札を活用すべき  

週刊ダイヤモンド』(2013年10月26日号「数字は語る」)

数字: 11:5
解説:ANAとJALへの新規発着枠割り当て数 (来春の羽田空港国際線の増加分の配分)

 羽田空港発着の国際線増加に伴い、国土交通省は10月2日、新規国際線発着枠の配分に関して、全日本空輸を傘下に持つANAホールディングスに11便、日本航空(JAL)に5便を割り振った。国際線枠の割り当ては両社への均等配分が長らく慣例であったが、JALが公的支援を受け経営再生した点が考慮され、「適切な競争環境の確保」を理由に傾斜配分が行われた。

 この異例の決定を受けて、JALは4日、国土交通省に是正を申し入れるとともに、行政文書の開示を請求した。国際線枠の収益性について、JALの植木義晴社長は「1枠あたり100億円程度の年間収入、20億円の利益と試算される」と記者会見で語っている。今回配分された16枠合計で、なんと約1600億円の年間収入、300億円以上の利益を生み出す計算になる。

 割り当て結果についても、植木社長は「国際線の新規枠は国民の重要な財産である。(中略)国交省は<適切な競争環境の確保>を傾斜配分の理由に掲げるが、それを行うに当たって、国民の貴重な宝、ましてや恒久的な影響のあるものを使っていいのか」と答えているが、全くもって至言である。年間300億円以上もの利益を生み出す国民の財産が、役所の(往々にして不透明な)裁量によって、特定の事業者に無料で配分されている。この実態こそが問題の根源なのだ。ANAとJALがそれぞれ何枠、といった数字自体は本質ではない

 では、どんな代案が考えられるだろうか。一つの有力なアイデアが市場の活用だ。政府が管理する国民の財産を公正かつ効率的に配分する方法として、入札は近年特に存在感を強めている。例えば、電波周波数帯の利用免許を入札で割り当てる電波オークションは、すでにOECD諸国の大半で実施されている(日本では未導入)。

 空港発着枠の配分に関しては、事業者からの抵抗が大きく、諸外国においても入札が活用された事例はまだ少ない。今回の一件を契機に、発着枠オークションの導入が真剣に検討されることを期待したい。


【関連図書】 


オークションを通じて権利を配分することの経済学的な意味や、その設計に関する問題点を一般向けに分かりやすく議論した文書として、第11章「競争入札」、12章「オリンピックをめぐる入札」がとても参考になります。他の章も非常にエキサイティングな話題が多く、値段に見合った価値のあるおすすめの一冊です。


複数のアイテムを同時に売る「複数財オークション」について、類書と比べて非常に分かりやすく説明している良書です。ネット・オークションで特に問題となる「サクラ入札」についても詳しく扱っており参考になります。

青木先生に訊ねる「制度分析のこれまでとこれから」(ECONO斬り!! 2014年5月28日)より転載

 経済セミナーの最新号(↓)に、スタンフォード大学の青木昌彦名誉教授との対談記事が掲載されました! 『経済セミナー』(6・7月号)

 対談と言いつつも、ゲーム理論や制度分析の大家でいらしゃる青木先生に、不肖安田がお話を伺う、というのが基本的な内容です。少し前に先生が出版された一般向け書籍(↓)で触れられなかった論点や議論も展開されており、本書をうまく補完するデキに仕上がっていると思います。 『青木昌彦の経済学入門:制度論の地平を拡げる』

 対談の目次は次のようになっています。11にわたる幅広いトピックについて、なんと17ページ分(巻頭のメイン対談よりも長い!)もお話させて頂きました。これだけのスペースを割り振り、かつ膨大な録音テープを編集して下さったさんに改めて感謝♪
<特別対談> 青木昌彦 × 安田洋祐 「制度分析のこれまでとこれから:時代、地域を超えて深まる社会への理解」

1 比較制度分析とは何か
2 なぜ認知の問題を考えるのか
3 正義や義務感は社会的な交換の産物
4 社会から個人への影響
5 歴史と制度分析
6 人口転換の影響と「失われた20年(?)」
7 マーケットデザインによる規範的な分析の可能性
8 The unified approach
9 イノベーションと法の役割
10 国内外で活躍する日本人経済学者と大学院生
11 日本への留学生を増やそう
 以下では、対談の雰囲気をお伝えするために、最初のトピックについて記事を転載させて頂きます。ご関心を持たれた方は、ぜひ『経済セミナー』をご購入頂ければ幸いです^^
 

1 比較制度分析とは何か

安田  今回刊行された新書のタイトル、おもしろいですね。『青木昌彦の経済学入門』(以下、『入門』と略)。青木さんはこういうタイトルは避けるかと思っていたのですが(笑)。青木さんが経済学を語るというよりは、青木さんのやってきた経済学研究を、一般の読者向けにまとめた本ですね。
 よく比較制度分析とは何かとか、比較制度分析で何がわかるのか、と質問されると思います。これって答えにくくありませんか。僕もゲーム理論について、同じようなことを聞かれると困るんです。

青木  ゲームの理論は分析ツールだといわれますね。だが、これから議論したいですが、社会のあり方についての見方という面もありますね。

安田  比較制度分析もツールで、「今までと制度の見方が少し変わる」、「制度というものはこのようにとらえられる」という新しい視点の提供をするものだと思います。比較制度分析によって直ちに、結論はこうだと説明するわけではない。その辺で混乱が生じて伝わりにくいことがあるように思うのですが。

青木  ツールというと単に数学的な操作の道具と狭く解釈されるむきがあるかもしれませんが、今おっしゃったように、広く社会現象を考え、論理的に説明する枠組みと解釈してみましょう。そういう意味では、ゲームの理論は、経済現象、広くは社会現象の解釈に、ニュートン的、物理的な方法とは異なった、人間主体の相互作用・相互認知に焦点を当てた社会科学独特の考え方の枠組みを提供していると思います。
 制度分析は、そういうゲーム的な考えを継承し、それをツールとして使いながら、社会の経済現象や政治・社会現象を統合的に解釈できないか、というやや欲深い問題意識を持っています。制度というのはそういう諸現象を統合的な仕方でつなぐ何者かであるはずだからです。
 そこにいま安田さんが言われたような問題意識が出てきます。おっしゃるように、それで、法はこうあるべき、政治はこうあるべき、という結論が直ちに出てくるはずもないですが、社会科学の究極の目的ともいうべき、世の中の解釈に、それなりのディベートの素材を提供することはできるでしょう。
 話が抽象的になってしまったので、少し具体的に、経済と政治の関係から始めましょうか。
 制度論だけではなくマクロ経済学、計量経済学などいろいろな分野で第一線の仕事をしているアセモグルが、歴史家ロビンソンと、『国家はなぜ衰退するのか』(2013年、早川書房)という本を書き、話題になっています。彼らの考え方は、国家が「内包的」、つまりすべての人が自分のインセンティブに基づいて経済行動でき、政策形成にも関与できるならば経済発展は順調に進む、それに対し、一部の利益集団が自分たちの利益のためだけに経済政策を進めるような「収奪的」な政治制度だと経済発展はうまくいかないというものです。ここでは、政治から経済へという一方的な因果関係が議論の中心になっています。もちろん、彼らも経済から政治へのフィードバックについても触れてはいるけれども、基本的には政治決定論だといえます。
 政治決定論では、制度は法律、規制などのルールであり、そのルールは政府が決めることができると考えますが、僕はそういう考えには留保がある。
 アセモグルらのように、政治や国家制度が中心だとするならば、どうして違った国家制度が生じるのか。その問題に彼らは回答していない。アメリカ経済学会の文献誌であるジャーナル・オブ・エコノミッック・リテラチュアの書評で、マックレオドも彼らは結局国家体制の違いの原因として、serendipityつまり偶然を利用する能力ということ以外に何も言って無いじゃないかと批判してますが。

安田  国家体制や政治システムなどの制度を前提として、その上で経済がどのように発展するかという問題を彼らは見ているということですよね。

青木  僕は、国家や経済制度、そして経済組織や社会規範は非常に長い目で見ると共進化(coevolution)すると見るべきだと思うのです。その共進化を理解する際、ゲーム理論がツールとして非常に重要な役割を果たすと考えています。というのは、政治交換のドメインでも社会交換や経済交換のドメインでも、人々は基本的には戦略的に行動する。つまり自分を取り巻く世界にいる他の主体の行動を互いに読みあいながら行動する、そうしたことの均衡が法、経済組織や規範として集約的に言語表現されるが、そういうものの連結構造がゲーム理論で分析できる。国家制度も経済制度も、互いに補いながら成長もすれば、衰退もする、そういうメカニズムの理解に私は関心があります

安田  アセモグル&ロビンソンを擁護するわけではないのですが、経済学で何らかの社会問題を分析する際、どこまでを外生的に与えられたフレームワークにして、どこからが内生的に決まる変数だと考えるのかは、モデルによってそれぞれですよね。アセモグル&ロビンソンは、政治の仕組みをとりあえず外生的な与件として、それによって経済がどうなるかをみている。それと別に、経済の動きに従って政治がどう動いていくかをみるモデルもあり得る。そして、青木さんがおっしゃるように両者をつなぐ作業もできると思います。
 彼らはその最初の一歩としておもしろい仮説を提唱し、現実のデータを使ってかなり細かく検証したので、注目されたのだと思います。そう解釈したときに、彼らの言うところの内包的か収奪的かという政治の側面が経済配分に大きい影響を与えるという分析は、的を射たものなのか、それともその分析自体もちょっと足りないのでしょうか。

青木  確かに、彼らが例として用いているように、北朝鮮と韓国の経済パーフォーマンスの差を比べれば、彼らの命題は常識的にも尤もだということになりますね。だがそれでは、中国の収奪的とも言える国家体制のもとで、なぜ経済成長が突然起きたのか。彼らは、もし中国で現在の収奪的な政治体制が継続するならば経済成長は遅かれ早かれ停滞するだろうと言っていますが、同じ中国の権威主義的な政治文化を受け継いでいたとも言える台湾では政治制度自身が経済成長によって変わっていったのですね。韓国もそうです。とすれば、果たして政治が与件と言ってすませておけるのか。
 日本では戦後はマルクス経済学が全盛でした。マルクス経済学は、土台としての経済が政治や法律などの上部構造を決めるという考え方でしたが、アセモグルやダグラス・ノースの政治決定論の場合は、その関係を逆転させた考えになっているわけですね。だが、両者はいわば同時均衡として繋がっているというのが、繰り返しになりますが、私の基本的考えです。
 社会関係のドメインでも言語やジェスチャー、あるいはギフトを通じて、相手の感情に働きかける。また相手の反応が自分の感情にも影響を与えていることを読んで行動するわけです。だとすると、これも人々は戦略的に、自分の感情的利得(emotional payoff)を高めるために社会行動するとも考えられる。しかしそうはいっても、相手あってのことですから、そうした戦略的な行動の相互作用の結果として、いろいろな規範とか正義観などという約束事が生じてくる。こういうゲーム的見方は、規範や正義などという集団志向的なカテゴリが先験的に天から降ってくるとするカント的な考えとは違って、最近西欧でも見直されつつあるヘーゲル的な相互確認(mutual recognition)に連なるともいえます。
 青木にかかると何でもかんでも制度になってしまう、と批判されることがありますが、戦略的補完性とか、連結ゲームといったゲーム論のツールを使って、基本的な制度配置の全体構造を統一的、論理的に見ようということです。その内容についてさらに興味のある方は是非近著の『入門』を参照していただきたいですが。


『国家はなぜ衰退するのか』

7:バブルに乗る投資家

 合理的群衆行動の理論では、投資収益の最大化を行わない非合理な投資家がいっさい存在しないにも関わらず、個々の投資家の持つ情報が市場に織り込まれずにバブルが発生する様子をうまく描写することができた。しかし一方で、この理論の下ではどの投資家もバブルの存在に気が付くことがないため、現実のバブル現象において観察される、投資家に関するいくつかの重要な行動を説明できないといった問題も抱えている。その一つが、いわゆる「バブルに乗る」(=Riding Bubble)と呼ばれる投資家行動である。

 合理的な投資家が、バブルの発生を知りながらも高値で売り抜けようとして買いポジションを張り続けるバブルに乗る投資行動は、古今東西のバブルに共通する現象だ。古くは18世紀にイギリスで起きた南海バブルにおいて、かの知の巨人ニュートンもバブルに乗ったことから大きな打撃を受け、「天体の動きなら計算できるが、人々の狂気までは計算できなかった」と述懐している。米国におけるITバブル崩壊の際にも、最も合理的な投資家と考えられるヘッジファンドの多くが被害を蒙(こうむ)っており、ある経営者は売り抜けに失敗した理由を尋ねられた際に(野球に喩えて)「我々はまだ8回かと思っていたが、すでに9回だった」と返答している。

 このようなバブルに乗る行動を説明するために鍵を握るのが、非合理な投資家の存在である。合理的な投資家はバブルの発生に気が付いた際に、非合理な投資家へ資産を売ることにより収益を上げることができる。しかし、もしも自分が資産を売った後に、バブルが弾けずにさらに膨らみ続けた場合には、追加的な収益を上げる機会を失ってしまうことになる。先ほどのファンド・マネージャーが言い残しているように、ゲーム終了ギリギリの9回まで粘って売り抜けるのが一番儲かるのだ。

 近年になって、このバブルに乗る行動がもたらすトレードオフをうまく表現する理論研究がいくつか登場している。合理的な投資家がバブルの存在について独立に情報を受け取るため、売買行動を同調させてうまくバブルの火消しを行うことができない、という投資家のシンクロナイゼーション・リスクに注目した研究や、バブルがどこまで膨らんでも絶対に資産を売ろうとしない非合理な投資家が微小な割合で存在する時に、合理的な投資家が非合理な投資家のフリをしてバブルに乗ろうとすることを明らかにした研究などが代表的で、いずれも高度なゲーム理論を使用しているのが特徴的だ。


8:自信過剰がバブルを生み出す

 最終回にあたる今回は、収益最大化を目指すという意味では合理的である一方、心理的なバイアスに染まっているという点では非合理な投資家に焦点を当てた、最新研究を紹介したい。投資家の心理的なバイアスに関しては様々な仮説が考えられるが、ここでは「自信過剰」(=Overconfidence)を取り上げる。具体的には、各投資家はそれぞれ独立にファンダメンタルズに関する情報を受け取るが、常に自分の情報の方が他人の情報よりも精度が高いと一貫して勘違いすると仮定しよう。

 このような心理的なバイアスが存在する状況では、仮にファンダメンタルズに関する情報が投資家の間で全て共有されたとしても、依然として将来に対する予想が食い違うことがあるため、投機的な取引が発生する。第四回で言及した不可能性定理(=No Trade Theorem)が成り立たないのである。もちろん、投機的な売買が行われたからといって、直ちにバブルが発生するとは限らない。楽観的な投資家と悲観的な投資家が同じだけ市場に存在すれば、自信過剰によって生じたお互いのズレが打ち消しあってバブルは発生しないからだ。

 それでは、自信過剰はバブルを生み出すことはないのでろうか。ここで鍵を握るのが、現実の多くの市場で観察される売りと買いの非対称性である。たとえば、先物市場が存在しない、あるいは空売りが禁止/制限されているような場合には、「売り」は資産の所有者しか行うことができない一方で、「買い」はどの参加者にも許されている。このような状況では、将来の値上がりを期待する楽観的な「買い」が値下がりを期待する「売り」によって適切にバランスされないため、価格が上ブレしてバブルが発生する。自信過剰な投資家と売買に関する非対称性を組み合わせる事によって、はじめてバブルを説明することができるのである。

 以上、過去八回にわたって経済学におけるバブル分析の動向を追ってきた。バブル現象の解明は、ゲーム理論アプローチの進展によってこの10~20年で急速に進んでいる。そこでは、投資家の学習行動や心理的なバイアス、売りと買いの非対称性といった現実的な要因を、いかに理論とうまく融合させるかが重要であった。今後の研究動向としては、これらの要素の中でも特に、今回紹介した投資家心理に注目する研究が増えていくことが予想される。バブル分析の更なる発展に期待したい。


【関連文献】


行動ファイナンスの先駆者の一人、シュライファー・ハーバード大学教授による講義録。本人の代表作である「ノイズ・トレーダー」モデルをはじめ、行動ファイナンス分野における代表的な考え方が紹介されています。(Amazonレビューで酷評されているように)日本語訳は分かりやすいとは言えないので、興味のある方はこの原書にトライしてみてください!


【参考論文】
よりアカデミックな研究論文にご関心のある方は、こちらのリストをご参照ください。